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北アイルランドの政治、社会をウオッチングします。


by niinfo
日刊ベリタ 2008年08月02日掲載

 英領北アイルランドのロンドンデリーにある、13人のカトリック住民が命を落とした「血の日曜日事件」(1972年)を、遺族らが運営する「フリーデリー博物館」を訪れて追体験した。無実の市民らが殺害された事件はデリー市民の心に熱い思い出として生きている。
 
▽「血の日曜日事件」以前 
 
 プロテスタント住民が多数派だった北アイルランドでは、政治の主導権はプロテスタント系政党が長年握ってきた。カトリック住民は選挙制度、住宅、就職問題で差別を受け、警察もほぼプロテスタント住民が勤務していたため、治安面でも不安にさいなまれる生活を送っていた。デリーではプロテスタント住民は少数派だったが、圧倒的多数のカトリック住民を差別していた状況は他の地域と同様だった。 
 
 米国で1960年代、キング牧師を中心とした、少数民族に対する差別撤廃運動が盛んになりだした。北アイルランドに住むカトリック住民たちも、米国の公民権運動に触発されて動き出した。 
 
 1969年以降、それぞれの宗派の民兵組織(カトリックのアイルランド共和軍=IRA,プロテスタントのアルスター義勇軍=UVFなど)、北アイルランドに派遣された英軍、地元住民を巻き込んでの暴力事件が頻発化し、「トラブル」と呼ばれるようになっていた。 
 
▽1972年1月30日=血の日曜日 
 
 デリーにある「血の日曜日トラスト」が運営する、「フリー・デリー博物館」の資料を参考に、「その日」を辿ってみる。 
 
 「北アイルランド公民権協会」は、「予防拘禁制度」(テロの容疑者を裁判なしで無期限に拘禁する制度)に対する抗議のため、デリー市民に平和デモの開始を呼びかけた。デリー以外の北アイルランド全域でも同様のデモが実行されることになっていた。 
 
 予防拘禁制度への抗議デモは禁止されていたが、約15000人の男性、女性、子供たちが、日曜日の午後、クレッガン住宅街に集まりだした。目的地は市内中心地のギルドホール広場で、ここで集会が開かれることになっていた。 
 
 丁度その頃、在デリーの英軍を指揮していたフォード大佐は、デモがギルドホール広場まで進まないよう、これを止めるための準備を進めていた。広場に通じる道にはバリケードが築かれた。英軍の中でもエリート部隊とされるパラシュート部隊がデリー市内に派遣されていた。 
 
 デモ参加者は英軍が着々と準備を進めていることに殆ど気づかないままだった。IRAはデモを邪魔しないと約束しており、平和なデモになると認識されていたので、女性や子供たちも安心し、時には歌を歌いながら、行進を続けていた。 
 
 デモ参加者の一群が、ウイリアム通りにあった英軍のバリケード近くまで来た。デモの先頭にいたトラックと一部の参加者が右に折れて、ボグサイド方向に向かい、数百人のグループはウイリアム通りを歩き続けて、バリケードの前に到達した。 
 
 バリケード周辺で、デモ参加者が英軍に向かって石や瓶を投げ、英軍はゴム弾や高圧放水砲で応じるなど暴動状態となったが、午後4時近くになると、次第に沈静化した。 
 
 暴動場所から離れたところから、突然、パラシュート部隊が群集に発砲しだした。(最初に発砲したのがパラシュート部隊か、あるいは群集が発砲したので部隊が応戦したのかは明らかになっていない。)群集側から、少なくとも1発、発砲があった。数人が撃たれ、最初の発砲から10分ほど経って、部隊に逮捕令が下った。 
 
 部隊は、逃げる群衆にも発砲した。足を、腕を、あるいは後ろから背中を撃たれたり、バリケードの前に立った時に撃たれた人もいた。撃たれて死にそうになった息子を助けようとして、自分自身が撃たれた父親もいた。バリケードから逃れ、自宅アパートの玄関前で撃たれて亡くなった青年もいた。 
 
 30分も経たないうちに、サッカー場ほどの広さの場所で、英軍は13人を銃殺し、15人に負傷を負わせていた(後死んだ人を入れると死者の総数は14人)。英メディアが「殺されたのは狙撃者、爆弾犯だった」と報道。英軍と政府は「兵士に何百発もの発砲を受けた」と説明したが、発砲の傷を負った兵士は一人もいなかった。 
 
 事件は北アイルランドばかりか、アイルランド共和国、世界の他の国でも大きな怒りを引き起こし、「殺りく」という言葉を使って英軍の行動を伝えた新聞報道もあった。13人の葬式の日には、ダブリンの英国大使館が放火される事件もあった。 
 
 治安悪化を重く見た当時のヒース英内閣は、事件から一ヶ月余り経って、北アイルランド自治政府を廃止し、ロンドン・ウェストミンスターからの直接統治に切り替えた。 
 
 血の日曜日事件以前の3年間で、宗派の対立で殺された人は210人だったが、この事件が起きてからの11ヶ月では445人となった。「トラブル」は激化していった。 
 
 事件から3ヵ月後、ウイッジリ裁判で、攻撃した兵士は全員が無罪となった。 
 
 ここまでが主に博物館内の資料による経緯だが、付け加えると、1998年、サビル委員会が事件の再調査を開始した。2008年7月末現在、報告書は出ていない。 
 
 昨年、マイク・ジャクソン英軍元参謀総長は、BBCの取材の中で、「無実の人が殺された」と語った。ジャクソン氏は北アイルランドで7年間勤務し、「血の日曜日」に、デリーに派遣されていた。 
 
▽ジーンさんの話 
 
 博物館で資料を見せてくれたのが、17歳の弟ケビン・マッケルンネーさんを「血の日曜日」に亡くしたジーンさんだ。ジーンさんは当時23歳。結婚してカナダにいたが、ニュースを聞いて急きょ帰国。その後、デリーに戻って生活している。 
 
 博物館は昨年1月オープンし、これまでに8000人以上が訪れた。撃たれて亡くなった人が着ていた洋服や、デモの様子の写真、ビデオ画像、書籍などが陳列されている。数分のビデオ画像は当時の様子を生々しく伝え、貴重な歴史の記録となった。 
 
 博物館近くには血の日曜日で亡くなった人をしのぶ記念碑がある。1分もかからない場所にあるのがローズビル通り。この通りで銃弾を受けて亡くなった人もいる。 
 
 「カトリック住民の差別は、昔、ひどいものだったんです」とジーンさん。「自分の持ち家があれば投票できるけど、なければ投票できないとか、プロテスタント住民の都合の良いように選挙区が変更されていた。就職でも差別を受けた」。 
 
 現在は?と問いに、「現在は、ほぼ差別はなくなった。法の下では平等だ」と答え、微笑んだ。 
 
 博物館を出て、ローズビル通りや記念碑をまた見た。血の日曜日事件や差別の過去は、この界隈では忘れることは難しい。生々しい記憶を呼び起こすような記念碑や場所がそのままで残っているからだ。 
 
 過去を忘れないでいることは、デリーの市民にとって、そして北アイルランドの住民にとって、良いことなのだろうかー?記念碑もどこか片隅の目立たない場所に置いて、日常生活を続けることはできないのだろうか? 
 
 城壁ツアーのキャロル・トーランドさんが言っていたことを思い出す。「血の日曜日事件の真相究明の結果を、私たちはまだ受け入れる準備ができていない」―。 
 
 住民にとっては、30数年前の「あの日」はまだ熱い記憶として残る。サビル調査委員会の報告書発表の見込みは未だなく、過去を封印できない状態が続く。 
 
 いつか、宗派の違いを気にすることがない社会ができることを願って、城壁の都市を後にした。(終) 
 
 参考:フリーデリー博物館サイト 
 
http://www.museumoffreederry.org/index02.html 
 
(取材旅行はアイルランド共和国、英領北アイルランドの観光部門・団体、Failte Ireland, Tourism Ireland, Northern Ireland Tourist Boardの資金で計画され、在ロンドンの外国プレス協会の会員が参加した。) 
# by niinfo | 2008-09-03 16:11 | 北アイルランドルポ
日刊ベリタ 2008年08月02日掲載

 英領北アイルランドの第2の都市デリー(人口約10万人)。「ロンドンデリー」が正式名称だが、地元では「デリー」と呼ぶ人が多い。17世紀、ロンドン市領であったことに由来する「ロンドンデリー」という名称を使えば、一部住民にとっては屈辱的な意味合いになる。プロテスタント住民が大多数だった北アイルランドだが、デリーでは少数派はプロテスタント住民で、多数派はカトリック住民だ。宗派の異なる住民の間の、英軍を巻き込んでの紛争が長年続き、13人の市民が命を落とした「血の日曜日事件」(1972年)は未だ人々の記憶に生々しく生きる。ロンドンデリーの「壁」近辺を歩いた。
 
▽「壁の都市」が残すもの 
 
 デリーを初めて訪れると、目を奪われるのが市内中心部を囲む外周約1・5キロの城壁だ。17世紀初頭、当時のアイルランドの統治国イングランドから、アイルランド半島の北部アルスター地方にやってきたプロテスタントの入植者が築き上げたものだ。入植はロンドン市の資金で実行され、時のイングランド王ジェームズ1世(アイルランド王、スコットランド王も兼務)の命を受けて行なわれた。城壁は、地元アイルランド人の攻撃から入植者を守るために建設されたと言う。 
 
 城壁はデリーを包囲線から守ったことでも知られている。17世紀末、カトリックのイングランド王ジェイムズ2世(アイルランド王も兼務)は、英王位をかけてプロテスタントのウイリアム3世と戦っていたが、英議会によって王位を追われ、フランスに亡命せざるを得なくなった。「徒弟」とよばれるプロテスタントの親睦団体のメンバー13人は、1688年12月、城壁の門を閉じ、カトリック軍(ジャコバイト軍と呼ばれる)の侵入からプロテスタント市民を守った。ジャコバイト軍はデリーを攻撃するべく、包囲線を展開した。1689年、プロテスタントの救援軍の到着で包囲は解かれたが、この間、当時のデリーの人口の半分が飢餓や病気で亡くなったと言われている。 
 
 プロテスタント軍は翌年7月のボイン川の戦い、その翌年のオーグリム、リマリックの戦いで勝利を決めた。「物語りアイルランドの歴史」(波多野裕造氏著)によると、1691年のリマリック条約で、プロテスタント(国教派)の優位が決定的になった。ダブリンのアイルランド議会は全員プロテスタント各派で構成され、英政府に従属する「植民地議会」になった。宗教界は3つのグループに大別され、「国教会をトップに、プロテスタントの非国教会派」が続き、「最下位にカトリック教会」が位置づけられたと言う。 
 
 ガイド役のキャロル・リン・トーランドさんと共に、プロテスタント住民の誇りのシンボルでもある城壁の中を歩く。上り坂の所々に大砲が置かれていた。 
 
 城壁外の左手に「徒弟」団体が集まる建物が見えた。城壁の門を閉じ、カトリック軍侵入を防いだ徒弟たちは、プロテスタントからすれば大きな誇りだ。毎年数回、プロテスタントの勝利を祝う行進が、市内で行なわれる。「カトリック住民とプロテスタント住民のぶつかりあいが頻発していた1970年代、80年代は、こうした行進が暴動に発展していた。今は何の問題もないが」とトーランドさん。 
 
 デリーの住民の70%はカトリック系で、残りがプロテスタント住民だ。「問題はないと言っても、カトリック住民にしてみれば、不愉快な行進ではないのだろうか?」と聞いてみた。トーランドさんは、「カトリック住民は現状を理解している」と答えた。 
 
 思い起こせば、北アイルランド内のあちこちで目にするのだが、カトリック、プロテスタントそれぞれの住民は住居前に旗(カトリックはアイルランドの旗、プロテスタントは英国あるいはイングランドの旗)を掲げるなど、自分の所属を明確にし、自分たちの歴史への誇りを表面化することで生きてきた。現在デリーでは少数派となってしまったプロテスタント住民にとって、行進は自分たちの存在の証でもあり、多数派カトリック住民がこれを止めることはできないのだろう。 
 
 それにしても、もう一方の住民にとって不愉快な行進は地域の平和には貢献しないのではないか?「理解」しているとしたら、ずい分我慢強いものだがー?様々な思いが心を巡っていると、説明が必要だと思ったのか、トーランドさんは、「ガイドをしていると、あなたはどっち?とよく聞かれる。これが最高にいやな質問だ。あなたはカトリックなのか、プロテスタントなのか、と。私は私なのに。宗派で自分を代弁されたくない」―。 
 
 それでも、宗派が住民の考え方や行動を規定してきたのも事実だ。トーランドさんは、70年代、80年代、「自分がまだ子供だった頃、暴動に参加するのはしょっちゅうだった。一種の趣味みたいになっていた」と語る。 
 
 「レンガや石、火炎瓶を、駐在していた英軍(カトリック住民からすれば、プロテスタント側及び体制側と見なされる)に向かって投げつけると、英軍はゴム弾や高圧放水砲で応じていた」とトーランドさん。「若者にとっては、知らない異性に出会える機会でもあったので、今度の暴動には何を着ていこうか?と友達同士で話すこともあった」と明るく話した。 
 
 共に城壁内を歩き、この取材旅行に参加していたほかの外国人記者たちが、これを聞いて思わず笑い声をあげた。「暴動が実は出会いの場所だったなんて、笑ってしまう」-。 
 
 私にはとても笑えなかった。コミュニティー内に憎しみの対象が存在し、頻繁に石や火炎瓶を投げる生活は暗く、苦しいものではなかったのだろうか。コミュニティー内の緊張感は相当なものであったろうし、今は果たしてそういった感情は消えているのだろうか? 
 
 城壁の高台に到着した。カトリック教徒が多く住む「ボグサイト」(湿地帯の意味)地区が見下ろせた。1972年、カトリック住民が公民権運動のデモを行なった場所だ。暴動化を恐れて派遣された英軍が、住民13人を射殺し、後に「血の日曜日」と呼ばれる事件になった。 
 
▽公民権運動が「事件」に 
 
 アイルランド全域で公民権運動が起きたのは、カトリック住民への差別が長年続いてきたからだ。プロテスタント住民が有利になるような選挙制度の撤廃、公営住宅の公平な割り当て、公務員採用面での差別廃止などを求めて、運動が起きた。 
 
 ボグサイト地区の広い緑の野原と住宅群を見ながらトーランドさんの説明を聞いていると、血の日曜日事件で「英軍が最初に銃を使った」という表現があった。実は、誰が先に発砲したのかは、この事件の大きな争点になっている。1998年、政府は調査委員会を立ち上げたが、まだ最終報告書が出ていない。デモに参加していた住民側の誰かが最初に発砲し、これに英軍が触発されて銃を放ったのか、あるいは英軍が最初に発砲したのかー? 
 
 トーランドさんは、「委員会の最終報告の結果が出たとしても、私たち住民はまだこれを冷静に受け止める準備はできていないと思う」と語った。未だコミュニティー内の緊張感は続いている。 
 
 週末の暴動で攻撃対象が英軍だったこと、ロンドンデリーではなく「デリー」と呼ぶこと、「発砲は英軍が最初だった」という説明など、トーランドさんはカトリック住民に違いなかった。「宗派で判断されたくない」と言いながらも、自分の体験も交えてデリーの様子を語ってくれたトーランドさんの勇気と、現在も未だ対立の中で生きる重さに心打たれた。(続く) 
# by niinfo | 2008-09-03 16:09 | 北アイルランドルポ
日刊ベリタ 2008年08月01日掲載

 プロテスタント系とカトリック系の住民との間で対立が続いてきた英領北アイルランドで、停止状態にあった自治政府が再開してから1年余が経つ。公衆の面前では声をかけることさえタブー視されてきた、対立政党の代表らが1つの政府を構成し地元の問題解決にあたる姿は、4千人近くを異なる宗派同士の争いで失った住民にとって、大きな前向きのメッセージとなった。互いに対する不信感が消えたとは言えないが、中心都市ベルファーストを在ロンドンの外国人記者数人と共に訪れ、新しい局面に入った北アイルランドの現在に触れた。 
 
▽「変われるか?―そう信じたい」 
 
 ベルファーストのプロテスタント住民が集中して住むシャンキル通り。閉店中の商店や窓ガラスが壊れたが修復されずそのままになっている建物などが目に付く。「プロテスタント住民の居住区域の中でも、ここは貧困度が高い地域」と、ガイドのヒュー・ライスさんが、私たち報道陣を乗せたバスを運転しながら、説明する。 
 
 「ベルファーストではカトリックの住民とプロテスタントの住民はそれぞれ固まって住む場合が圧倒的に多い。宗派が違う住民同士が混在する地域は少ないんだ」とライスさん。 
 
 通りにある建物の壁面には、様々な壁画が描かれていた。一昔前までは、カトリック、プロテスタントの両宗派の民兵組織が銃をかかえる戦闘的なものが多かったが、現在ではアイルランドの歴史に関わる壁画、地域コミュニティーの活動やスポーツをしている様子などを描くものに変わっていると言う。黒いマスクで顔をかくし、銃をかかえている民兵の様子を描いた壁画を私が目撃したのは、このシャンキル通りとその近辺ぐらいだった。 
 
 バスはローワー・シャンキル・ロード住宅街の広場で止まった。広がる緑の芝生を囲むように建てられた何軒もの住宅の前には、英国のユニオン・ジャックの旗かイングランドのセント・ジョージの旗が掲げられていた。これはプロテスタント住民の居住地域であることを示す。 
 
 アパート群の壁には、巨大な壁画が複数あった。広場の中央に立つと、壁画に囲まれている思いがする。広々とした場所に立っているにも関わらず、窒息しそうなほどの大きな圧迫感を感じた。 
 
 壁画の1つはカトリック住民とプロテスタント住民の戦いを取り上げ、誰かが火炎瓶などを投げつけたらしく、住宅が燃えている様子を描いていた。攻撃されて横たわる男性の姿も背後に見えた。戦いの場面は丸い輪の中に描かれており、上部に「変えられるだろうか?」という疑問文が書かれていた。下部には「(変えられると)思う!」という答えがあった。 
 
 カトリック住民の居住地とプロテスタント住民の居住地の間には、時として「ピースウオール」(平和の壁)と名づけられた「壁」がある。この「壁」とは、少なくとも高さ5メートルはありそうな柵のことだ。上部は金網になっていることが多い。柵と柵の間に一定の距離が置かれている場所もあり、例えば、カトリック地区からプロテスタント地区に行こうとすると、柵の一部がドアのように開く仕組みになっていて、ここから2つの地域の緩衝地域を歩き、今度はプロテスタント地区の「ドア」から、相手側に入る。夜一定の時間から早朝まで、ドアは閉められている。 
 
 ピースウオールができたのは、1970年代初頭だ。カトリック、プロテスタント住民がそれぞれに対する暴力行為を防ぐために、当初はダンボール、針金、木片、コンクリート片などを積み上げたバリケードが発端だ。 
 
 住民同士の暴力が過激化したため、当時の英領北アイルランド政府が、在ロンドンの英政府に軍隊の導入を依頼。住民、民兵組織、英軍の兵士が抗争に関わるようになる。「平和の壁」は、次第に固定されるようになり、現在では鉄製の頑丈な柵となっている。 
 
 2つの宗派の争いのきっかけは、何世紀も前にさかのぼる英国(イングランド)のアイルランド(アイルランド半島一帯)支配だ。1920年代、南部がアイルランド自由国として自治権を持ち(後アイルランド共和国として独立)、一方の北部の6州は英国同様プロテスタント系住民が多く工業的にも栄えていたことから、カトリック教徒が大部分の南のアイルランドと運命を共にすることを拒んだ。現在では、北アイルランドのカトリック住民とプロテスタント住民の比率はほぼ半数となった。 
 
 1970年代以降の住民同士の対立(「トラブル」と呼ばれる)は激化したが、1998年の和平合意を一つのめどに、次第に事態は沈静化した。1999年、自治政府が発足したが、2002年、スパイ疑惑をきっかけに政党間の信頼感が崩れ、自治政府は事実上崩壊した。 
 
 昨年5月、英政府、アイルランド政府の首脳陣を交えた交渉の末、新たな自治政府が発足した。同じ部屋にいることもよしとしないほどの敵だった、プロテスタント系民主統一党とカトリック系シンフェイン党のそれぞれの代表がにこやかに談笑する姿がメディアを通して報道された。新しい北アイルランドの大きな一歩だった。 
 
▽「今はすっかり良くなった」 
 
 ベルファーストで生活し、仕事をするどの人に聞いても、「カトリックとプロテスタント住民の憎しみというのは、殆どの人にとってはあまり重要なことではない」、「普通に一緒に仕事をしているし、問題とするのは本当に一部の人だけだ」という答えが返って来た。 
 
 壁画に囲まれた広場に私たちを連れてきたライスさんも、「こだわっているのは、全体のほんの一部の人なんだよ」と言う。ライスさんはベルファーストで生まれ育ち、35年間、地理の教師として教え、ガイドの資格を取った。 
 
 北アイルランド議会(通称「ストーモント」)の建物は、中心部からやや離れた小高い丘の上にある。ストーモントに通じる一本道に入る直前、バスはチェックポイントを通過した。ライスさんがチェックポイントの管理者にちょっと挨拶するだけで、チェックは終わりだった。「前は、車を止めて、中を検査してから出ないと、一本道に入れなかったんだ」とライスさん。 
 
 「今はすっかり良くなった、昔とは違う」-。そんな言葉を聞きながらも、プロテスタント地区とカトリック地区を分ける、頑丈な柵の存在に打ちのめされた。首を曲げて、柵の上を見れば、金網が伸びる。「絶対に越えさせるものか」という意思、あるいは「越えてきたら、怖い」という恐怖感も象徴しているように見えた。壁・柵と共に生きることは、決して尋常な生活ではないのではないか。 
 
 観光団体「ベルファースト・ビジター・会議社」に勤めるイブ・オニールさんに聞いてみると、「他の場所と比べて、全く普通だとは確かに言えない。でも、北アイルランドへの投資も増えているし、段々良くなっていくと思う」と答えた。「自治政府再開は本当に良かったと思っている。これで自分たちのことは自分たちで決められる」。 
 
 夜、伝統的なアイルランドの音楽と踊りが見られるという、「エンパイヤー・ミュージック・ホール」に足を向けた。バイオリンを中心とした4人組のバンドに、バレーのチュチュに似た衣装を身に付けた女性たちが踊る、「オマリー・エキスペリエンス」の公演だった。どことなく懐かしさを思わせる、フォーク・ミュージックの調べとリズミカルな演奏に合わせて、女性たちがタップダンスや脚を大きく上下させる動きで舞台を飛び回る。十代から高齢者までと観客の年齢層は幅広い。自然に手拍子が起きる。 
 
 第一部が終わり、身体をゆすりながら音楽に耳を傾けていた、白髪の男性に声をかけてみた。「今聞いた音楽は、本当に昔からのままの伝統音楽なのだろうか」?男性は、うなずいた。「でも、音楽そのものは変わらないとしても、こうした音楽を聞くために家族や親戚が一堂に集まる機会はめっきり少なくなった。これが寂しい」。 
 
 「昔も、踊り子のコスチュームはあんなに短かったのだろうか?」と聞いてみると、男性は、「昔はずっと長かった。現代風にセクシーな方が受けるのだろうね」、と言って笑った。 
 
 第2部が始まり、演奏をまた聴いていると、本当にここは紛れもないアイルランドなのだな、と感じた。前日いたダブリンと、文化的には一つにつながっている場所なのだ。アイルランド共和国と英国という、2つの国に分かれざるを得なかった、北アイルランドの歴史をまた思い出していた。(続く) 
# by niinfo | 2008-09-03 16:07 | 北アイルランドルポ
日刊ベリタ 2008年07月30日19時40分掲載

 1973年の欧州連合(EU)加盟を機に大きな経済成長を遂げ、近代的なハイテク産業の国として変身したアイルランド共和国が、6月中旬、EUの新基本条約「リスボン条約」の批准を国民投票で否決した。「まさか、アイルランドがー?」という驚きがEU中枢部を襲った。EUの投資の最大受益国アイルランドはEUにノーと言う国に変わりつつあるのだろうか?一方、アイルランド半島の北の6州で構成される英領北アイルランドでは、2002年秋以降停止状態となっていた自治政府が昨年、ようやく再開となった。カトリックとプロテスタントという異なる宗派の住民同士の争いに政治家も引きずられてきたが、新たな一歩を踏み出しつつある。ロンドン在住の外国人プレスを対象にした取材旅行に参加し、アイルランド半島の南と北を駆け足で巡った。光りと影が拮抗する数日間となった。 
 
▽移民がやって来る国 
 
 1840年代、アイルランドをジャガイモ飢饉が襲った。ジャガイモ菌による感染症を避けるには、主食のジャガイモを食べることをあきらめざるを得なくなった。国民は餓死に至るか病気に苦しみ、10年間で150万人ほどが亡くなったとされる。生き残りをかけて、イングランド(後の英国)、米国、カナダなど国外に逃れる国民も続出した。アイルランドは移民の輸出国となった。飢饉の前は、(英領北アイルランドを含む)アイルランド半島の人口は800万人を超えていたが、現在は約600万人。未だに人口数では回復ができていない。 
 
 1973年、EUに加盟したアイルランドは1990年代に入ってから急成長を遂げる。特に目覚しい成長となったのが1995年から2000年で、10%前後の成長率を記録した。「ケルト(アイルランド、スコットランドなどに住むケルト人)の虎」、「ケルトの奇跡」と言われるほどになった。アイルランドは世界中から移民を受け入れる国となっていた。 
 
 首都ダブリンの繁華街グラフトン・ストリート。飲食店からファッションまで様々な商店が並び、国際色豊かな観光客や移民、地元住民が通りをひしめく。「時々、自分の国にいる感じがしない」と、ダブリン市民は感じると言う。 
 
 私自身がダブリンを訪れたのは17年ぶりだ。グラフトン・ストリートを同じように歩いたが、今回は以前よりももっと人ごみが多い感じがした。海外に支店もある「ビューリーズ・カフェ」に腰を下ろすと、注文を受けるウエイトレスはほぼ全員が中国系だった。 
 
 ガイド役のガリー・バーンさんによると、EUが東方拡大をした2004年以降、最も多いのは「ポーランドからの移民」だ。07年、EUに加盟したばかりのルーマニアやブルガリアからの移民も増えている。 
 
 ダブリンは古くはジョナサン・スイフト(「ガリバー旅行記」)、20世紀には入ってからはジェームズ・ジョイス(「ダブリン市民」、「ユリシーズ」)、サミュエル・ベケット(「ゴドーを待ちながら」)、オスカー・ワイルド(「ドリアン・グレイの肖像」)など、著名な小説家や劇作家を生んだ都市でもある。ジョイス自身はアイルランドを嫌っていたとも言われ、成人になってからの生涯の殆どを国外で過ごしたが、ダブリンをテーマにした作品もあることから、ジョイスの作品を読みながら市内を巡る若者たちの姿を見かけた。 
 
 「ユリシーズ」をはじめジョイスが作品の中で言及したのがリフィー河。その南岸にあるテンプルバー近辺は、ロックバンド「U2」の録音スタジオやミニ・コンサート会場などがあり、文化的メッカの1つとなっている。中世を思わせる狭い通りを歩いていると、アコーディオンを弾いている人がいた。物悲しさと陽気さが混在し、足を止めずにはおかない音だった。人懐こい微笑を浮かべながら、歌い、アコーディオンを操っていた。 
 
 歌の区切りがついたところで、どこか他の国から来たのかと聞いてみた。「ルーマニアだ」。「アイルランドの生活はどうですか?」男性は、やや驚いて「ルーマニアだ」と繰り返す。言葉がうまく通じないことが分かって、「大丈夫」という意味でOKサインを出した。新しい歌を始めてくれた男性にチップを出し、聞き入った。 
 
▽「仏大統領にはノーだ」 
 
 ダブリンで一晩を過ごし、早朝、宿泊先の周辺を歩いてみた。宿泊先は、「セント・スティーブンス・グリーン」公園の真向かいにあった。中に入って歩き回るほどの時間はなかったが、門の辺りを歩いた後、振り返ると新聞のスタンドが見えた。 
 
 スタンドの後ろには、タバコをうまそうに吸う販売人の男性がいた。「景気はどうですか?」と聞くと、「あまり良くはないけどね。まあまあ、大丈夫さ」。 
 
 新聞販売ケースの中には、アイリッシュ・タイムズなどの自国の新聞と共に、英国の新聞、それにフランス、ドイツの新聞など。「外国の新聞も売っているんだね!」と驚くと、「そうさ」と言ってにっこりし、またタバコを吸う。 
 
 新生EUの基本条約「リスボン条約」の批准を、アイルランド国民が6月否決してしまったので、サルコジ仏大統領が「2回目の国民投票をさせようとしている」と言う見出しが、アイルランド紙の1つに出ていた。翌週には、サルコジ大統領がアイルランドを訪問することになっていた。この件について聞くと、新聞売りの男性は、「何回聞いたって、ノーはノーだよ。フランスだって、オランダだって(以前には)ノーと言ったんだから。サルコジには、つべこべ言わずに国に帰れと言いたいね」。 
 
 新聞スタンドの向かい側に、路面電車が止まった。仕事に向う人々が、乗り遅れまいと走ってゆく。欧州国内で路面電車はよく見かけるが、ダブリンの路面電車は車体がぴかぴかで、妙に新しい。ダブリンの路面電車は19世紀には既に存在していたが、長い間閉鎖状態だった。「ルアス」として再登場したのが2004年。運航開始からほぼ一年で、利益を生み出すようになった。 
 
 1980年代後半、18%にも達していたアイルランドの失業率は、1990年代以降の好景気で3-4%にまで落ちた。昨年からはかげりが生じ、今年5月時点での失業率は6%となった(欧州統計局発表)。それでも、07年の一人当たりの国内総生産はルクセンブルグに続き、アイルランドが第2位を維持している。 
 
 EU大統領の設置や意思決定の迅速化などを定めるリスボン条約の批准をアイルランドは否決したものの、欧州委員会の調査(6月末)では、国民の大部分がEU加盟で利益を享受したと答えており、親EUは変わらないようだ。 
 
 アイルランドの英国からの独立史の中で、大きな位置を占めるのが、ダブリン中央郵便局だ。1916年、独立を求める武装有志約1000人が郵便局に立ちこもり、戦闘の末に、「アイルランド自由国」として独立を宣言した。英軍相手に一週間抗戦したものの、数千人の死傷者を出した。これは直ぐには独立にはつながらず、反乱指導者16人が処刑されるというむごい過去があった。 
 
 この郵便局の前の路上に、電光掲示板が立てられていた。ネオンになっていて、人がゆっくり歩く姿のイメージが現れる。ついつい、小走りで歩きがちなダブリン市民に、「もっとゆっくりしよう」というメッセージを与えるために立てられたという。まだまだ元気なダブリンーそんな印象を持った。 
 
▽南から北へ 
 
 ダブリンから英領北アイルランドに向うことになった。ダブリン・コノリー駅から北アイルランドの中心都市ベルファーストの中央駅まで走る電車に乗った。 
 
 2時間ほどでベルファースト中央駅に到着する。パスポートを見せる必要はなかった。陸を走る電車での旅だったために、南のダブリンも北のベルファーストも「1つのアイルランド」であることが、しみじみと実感された。 
 
 アイルランド半島が2つの国に分かれているのは、元はといえば、イングランドによる、アイルランド支配だった。反乱、独立運動を封じ込めるため、カトリック教徒が大部分のアイルランドに、プロテスタントのスコットランドやイングランドからの入植が組織的に行なわれた。北部のアルスター6州は、プロテスタント住民が大多数を占めるようになった。いよいよ、アイルランドが独立の運びになった時、6州は英国との結合を選択した。 
 
 アイルランドを歩けば、あちこちで、過去の傷痕が見えてくる。盛夏の陽光が溢れるグラフトン・ストリートから、北のベルファースト市内に足を踏み入れると、忘れられない過去がますますくっきりと見えてきた。(続く) 
 
ーアイルランドの南北分割までの動き 
 
12世紀 イングランド王ヘンリー2世がアイルランド侵攻 
17世紀 イングランド、スコットランドからの入植者(プロテスタント)が増加。 
1641年 入植への不満から、カトリック住民によるプロテスタント住民の虐殺 
1649年 オリバー・クロムウェルがアイルランドで住民虐殺 
1650年 クロムウェルのアイルランド制服 
1685年 カトリックのジェームズ2世がイングランド王に 
1688年 宮廷革命でオレンジ公ウイリアムと妻メアリーが国王に 
1689年 ジェームズ2世、デリー包囲 
1690年 ウイリアム3世の侵攻、「ボインの戦い」 
1691年 リマリック条約でプロテスタントの優位決定 
1695年 異教徒刑罰法でカトリック弾圧 
1801年 英政府、アイルランドを正式併合 
1845年―49年 ジャガイモ飢饉の被害がアイルランド全土に広がる 
1914年 アイルランド自治法が成立するが、第1次世界大戦のため保留 
1916年 英国からの独立を目指し、南部の都市ダブリンで約1000人の市民が「イースター蜂起」。指導者は処刑 
1920年 アイルランド施政法の下、プロテスタントが多く、英国との継続した連合を望む北東部の6州「北アイルランド」とカトリックが主体の南部26州とが分離 
1921年 英国―アイルランド条約が締結。南部26州が自治権を持つ「アイルランド自由国」になることを定めた。北アイルランドの6州は「自由国」に加わらないことを選択。北アイルランド議会発足(71年まで続く) 
1922年 南部がアイルランド自由国憲法を制定 
1937年 南部が新憲法を制定し、主権国家を宣言 
1949年 アイルランド共和国が成立(北部は英領北アイルランドのままを維持) 
# by niinfo | 2008-09-03 16:05

(「Ripresa」(リプレーザ)誌、 社会評論社、2007年第2号掲載)


北アイルランド:忘れられた場所のアパルトヘイト


―ベルファーストの悲劇

 「アパルトヘイト」──。英領北アイルランドの中心都市ベルファーストに住むプロテスタントの牧師ノーマン・ハミルトン氏は、北アイルランドの現況をこう呼ぶ。

 かつて、南アフリカ共和国で白人と非白人を差別的に規定した人種隔離政策アパルトヘイトが強制的に北アイルランドで実行されているという意味ではない。カトリック系住民とプロテスタント系住民とがそれぞれ宗派ごとに固まって住み、お互いの行き来がほとんどない傾向が近年ますます強まっている思いがする、と言うのだ。

 ハミルトン牧師の自宅は、ベルファーストの中でもカトッリク系住民とプロテスタント系住民の争いが特に頻発したアルドイン地区近辺にある。北アイルランドのガイドブックが観光客に足を踏み入れることを勧めない場所の1つだ。

 私がアルドイン地区を初めて訪れたのは2002年だった。英外務省が主催した在英外国人ジャーナリストのための取材旅行に参加した私は、ベルファースト市内のあちこちで、英国旗やアイルランド共和国の国旗が掲げられていることに気づいた。英国旗はプロテスタント系住民の、アイルランドの国旗はカトリック系住民の居住地を指すことを、観光バスのガイドが教えてくれた。

 プロテスタント地区とカトリック地区の間にある広場の一角にバスが停まると、両宗派の住民が信奉する自警団の団員が覆面をし銃を構えた様子を壁画に描いた建物が並び、プロテスタント、カトリックの陣地を示す旗が互いに向き合うように掲げられていた。子供たち数人が広場を横切っていく。頭上にはそれぞれの旗が翻っているのが見えた。

 現在でも続く対立の象徴を子供たちは毎日目にし、学校に行き、遊びに出かける。何と残酷なことか、と胸をつかれる思いがした。この光景が、その後何度か北アイルランドを訪れるきっかけとなった。

 2001年、アルドイン地区でカトリック、プロテスタント両派の大きな衝突が起きた。カトリックのホーリー・クロス・ガールズ小学校に通う少女たちは、毎朝、プロテスタント系住民の家が片側に並ぶ一本道を通る。9月初旬、この一本道にプロテスタント系住民が立ち並び、少女たちにつばをはく、悪態をつくなどの行動に出た。プロテスタント系住民によればカトリックの住民が家の窓に石や火炎瓶を投げつけて威嚇行動に出たので、自衛として反撃に出ただけだと言うのだが。

 泣きながら通学路を親と共に進む少女たち、親や子供を脅かそうと罵詈雑言を吐くプロテスタントのデモ参加者、プロテスタントやカトリックの自警団の脅し、ものものしい機動隊の防御活動は、連日メディアで報道され、異なる宗派同士の醜いいさかいの様子が北アイルランド中に伝わった。

 5年半前の出来事を、ハミルトン牧師は「本当にひどい事件だった」と振り返る。現在、アルドイン地区で大きな衝突は見られないという。「何もない、普通だということでは、何の記事にもならないでしょうね。申し訳ない」、と筆者に微笑む。

 それでも、北アイルランドの約170万人の人口をほぼ2分するプロテスタント系(53%)とカトリック系(43%)の住民がそれぞれ一定の地域に住み、交流をしない傾向は強まっていると指摘する。「一言で言うと、アパルトヘイトだ」。

 2001年の国勢調査を見ると、ベルファーストのアルドイン地区には圧倒的にカトリック系住民が多く、プロテスタント系は1%だけ、逆にプロテスタント系が多いシャンキル地区ではカトリック系は3%のみとなっている。ベルファーストだけに限らず、北アイルランドの大部分の地域ではいずれかの住民が宗派ごとに固まって住む傾向がある。多くの人が自分が所属する宗派同士で住んだほうが安全だと考えるからだ。ある地域で少数派となれば、いじめや暴力行為の対象になりやすく、それぞれの宗派の自警民兵組織(実際は「暴力団」と言ったほうが近いのだが)に、出て行けと様々な脅しを受けることも珍しくない。

 といっても、北アイルランドの住民たちが信仰熱心なあまりにいがみあっているのではない。元をたどれば、カトリック教国だったアイルランド半島にイングランド(後の英国。プロテスタント)が勢力を伸ばした過去の歴史があった。半島の南は独立への歩みを進め、現在はアイルランド共和国となった。欧州連合(EU)の加盟国となり、EU助成金や外国企業への投資優遇策を提供しながら経済成長を遂げ、首都ダブリンはロンドンをしのぐほどの多彩な国籍の人々が働く、国際的な都市となった。

 一方、プロテスタント系住民が多く居住していた6州は「英領北アイルランド」となることを選択。地理的には南同様アイルランド半島にいながら、政治的な所属は海の向こうの英国、というねじれ現象が続く。

 それぞれの宗派を代表する政治家の間でも互いへの不信感は非常に強く、アイルランド共和国政府と英政府の支援で1998年成立した北アイルランド自治政府は、2002年以来機能停止状態だ。今年3月には総選挙が開かれ、自治政府再開が予定されているものの、今後の成り行きは確実ではない。

―イングランドのアイルランド支配

 北アイルランド問題の元をたぐると、イングランドのアイルランド侵攻にさかのぼる。

 南北のアイルランド人たちがよく使い、イングランドに住む人が「またか」という顔をするのが、「イングランド(英国)がアイルランドを800年間植民地支配してきた」という表現だ。イングランド人側から見れば、「全くアイルランド人は昔のことを良く覚えている。そんな昔のことを今言っても始まらないだろう」という思いがあるのだろう。

 しかし、どこの国の歴史を見ても、あるいはどのような社会でも、支配された、抑圧されたあるいは虐げられた側の方はその経験を長い間忘れないでいるものだ。

 「800年」というのは、12世紀のイングランド王ヘンリー2世が、ノルマン人に支配されていたアイルランドに侵攻した時から数えた場合だが、イングランドがアイルランドでの実権を本格的に持ち出したのは ヘンリー8世が1541年にアイルランド王も兼務した時からだったと言われる。ヘンリー8世はアイルランド的なものを許容せず、イングランドのやり方への同化を強要した。

 当時のイングランドは世界の植民地支配をめぐってカトリック教国スペインと争っていた。イングランドは英国教会を体制としており、スペインがカトリック教徒の多いアイルランドを足がかりにしてイングランドを侵略するのではないかと恐れた。

 波多野裕造氏の『物語アイルランドの歴史』によると、アイルランド、スコットランド、マン島のケルト系住民(ゲール人)の族長らに対しては、イングランド王への忠誠を誓うものには領地保持を許可し、師弟をイングランドに留学させることでイングランド化を進めたという。氏によれば、この結果、「アイルランドが次第にそのケルト民族的特質を薄め、やがて言語(ゲール語)すら失ってしまう結果になったことは否定できない」。

 イングランド王は反抗するものからは土地を没収し、イングランドやスコットランドからプロテスタント移民の植民を奨励した。波多野氏は、「アイルランドの国内の少数派であるプロテスタントと絶対多数のカトリック教徒の対立、相克」の深まりを指摘しているが、まさに現在の北アイルランドの状況が既にこの頃から出来上がっていった。

 17世紀、オリバー・クロムウエルが指導者の立場に着くと、徹底したカトリック教徒弾圧策を実行。1697年から1727年の刑罰法ではカトリック教徒に対し土地所有の制限、公職就任の禁止、選挙権の没収などが実行された。

 1801年、アイルランドは連合法の下、大英帝国の一部となったが、19世紀を通じてアイルランド自治への動きは止むことはなく、アイルランド島全体ではアイルランド民族主義者(ナショナリスト)と英国への帰属を望む人々(ユニオニスト)との対立が激化してゆく。

 流れを変えたのはいわゆる「イースター蜂起」(1916年)で、武装男女約千人がダブリン中心地を占拠し、アイルランド共和国の設立を宣言した。この蜂起は英軍によって鎮圧され、間もなくして反乱指導者らが処刑された。これが反イングランド感情とナショナリスト運動への同情を一気に高めたと言われている。

 1919年から21年までのアイルランド独立戦争の後、21年末、英国・アイルランド条約が交わされ、英連邦の中の自治領としてアイルランド自由国が建国された。一方プロテスタント系住民が多く住む北部アルスター地方の6州は北アイルランドとして英国の直接統治に入ることになった。38年、南のアイルランドは新憲法の下で共和国として主権国家となり、現在に至っている。

―不信感の歴史
 
 在ベルファーストのジャーナリスト、デビッド・マッキトリック氏と歴史家デビッド・マックビー氏が書いた『メーキング・センス・オブ・ザ・トラブルズ』によれば、プロテスタント系住民が過半数の北部6州が北アイルランドになったことは、この地域に安定を必ずしももたらさなかったという。

 プロテスタント系知識層は英政府がいつかは北部を南部と一緒にする政策を打ち出すのではと恐れ、北アイルランド内ではカトリック系住民が南部と協力して自分たちに攻撃をかけるのではないかと懸念。カトリック系が人口比率の中で増えて行き、中産階級になってゆくと、貧しいプロテスタント系住民からは嫉妬や疎外感も出るようになった。

 一方のカトリック系にしてみれば、新たな枠組みの中でアイルランド人としてのアイデンティティーが否定され、圧倒的にカトリック教徒が多い南部から切り離されたことで、政治的に無力感を感じるようになる。さらに、1920年代以降の約50年間、プロテスタント系が政治、行政上の支配権をほぼ独占する中で、自分たちが雇用、住宅、政治上の権利などで差別されていると感じたが、実際この懸念は現実に裏打ちされたものだった。

 1969年を機に、米国の市民運動に触発されたせいもあって、政治、雇用、住宅面で差別を受けていたカトリック住民による大規模なデモ、アイルランド共和国軍(IRA)などの民兵組織による「テロ」、これに対抗するプロテスタント系住民による攻撃や民兵組織による「報復テロ」が目立つようになった。

 住民たちの暴力の目に余る過激さに、当時の北アイルランド政府(プロテスタント系政党が独占)は、英政府に軍隊の導入を要請。カトッリク系民兵組織や過激住民らは、昔から続いた独立戦争の一環として、英軍を占領軍と見なし、英政府支配を支持する王立アイルランド警察(現在の北アイルランド警察)やプロテスタント系住民への攻撃を続けた。これに対抗してプロテスタント系民兵組織、アルスター義勇軍やアルスター防衛協会も同様に攻撃を繰り返す。こうして、69年以降の「トラブル」と呼ばれた約30年間の暴力行為の結果、約3600人が命を落としたと言われている。

 様々な政治的紆余曲折の後、98年の和平合意が成立し、北アイルランド史上初めてカトリック系とプロテスタント系政党による連立政権が成立した。

 宗派の違いによる互いへの憎しみや不信感は消えたわけではない。

 IRAやプロテスタント系自警団・民兵組織の暴力行為は望んだようには収まらず、何度か「停戦」宣言が出てはこれを取り消す、という流れがあった。
また、先述のように連立政権はIRAのスパイ事件(現在真相は未だに不明)をきっかけに、「信頼感を失った」とするプロテスタント系政党が連立政権から離脱する動きを見せ、現在も自治政府は機能停止状態だ。

 地元の新聞を開けば、カトリック系住民がプロテスタント系住民の恨みをかった、あるいはその逆のケースなどで傷害あるいは殺人事件が起きるのは珍しくない。

 駐留英軍に対する地元民の反英感情も未だに根強い。2004年、北アイルランドに派遣されたスティーブ・マックグリン歩兵は、他の兵士数人とパトロール中、全く何の威嚇行為もしていなかったが、どこからともなく集まったカトリック系住民の一群に追いかけられ、命からがら逃げ出したことを自著『スクワディー』(「新兵」の意味)に書いている。
―無法地帯

 ベルファーストの郊外にある「ウエーブ」は、「テロ活動」などで家族を失った人々のための支援組織だ。週に何度か集まり、お茶を飲んで他愛のない話をしたり、マッサージなど心身をリラックスさせるサービスも受けることができる。ほとんどが女性たちで、夫や兄弟を「テロ」で失った人たちだ。付き合いが長くなると、お互いがカトリック系なのか、あるいはプロテスタント系なのか分かることが多いというが、自分たちからはどちらの住民なのか、どのグループの攻撃で家族を失ったのかを詳細には語らないという。

 プロテスタント系武装集団が根城にしているシャンキル通りには、「シャンキルの殺し屋たち」と呼ばれるチンピラ・グループがかつていたという。「私の夫はシャンキルの殺し屋たちに殺されたのよ」と50代後半と見られる女性が語る。「でも、殺した人は捕まっていないの」。そばにいた女性も、「私の場合もそうなのよ」と相槌を打つ。

 北アイルランドで多発した暴力事件で、遺族が苦しめるのは、犯人が「捕まらない」、「正当な裁きを受けない」ことだという。

 圧倒的にプロテスタント系が占める警察にカトリック系住民は心を許さず、警察に頼るよりは「自分たちの身を守ってくれるカトリック系民兵組織」に頼るからだ。また、いずれの場合でも、人々の口は堅い。誰が犯人かをたとえ分かっていても、それを警察に告げれば、必ず復讐される。

 1972年、北アイルランド北部の都市ロンドン・デリーで「血の日曜日」と呼ばれた事件が起きた。英軍が武器を持たないデモ参加者に発砲し、最終的に13が命を落とした。英軍側は群集側が先に発砲したと主張するのに対し、犠牲者の肉親は英軍側が最初に手を出したと反論。巨額の費用をかけた実態調査の後も、未だに誰が最初に発砲したかは明らかになっていない。

 この事件は例外でない。真犯人が誰かは分かっていても真実を明るみに出すことでさらに暴力事件が起き、自分や家族への報復行為があると思うと、人々の口は重くなるばかりだ。

 今年1月、カトリック強硬派でアイルランドへの帰属を望むシン・フェイン党は、宿敵と見なしてきた北アイルランド警察を承認することに合意した。「警察を承認」とは一見奇妙に聞こえるが、プロテスタント系住民が圧倒的な割合を占めてきた警察組織をシンフェイン党はこれまで認めていなかったのだった。

 この合意の直前、北アイルランドの警察オンブズマン組織が、現在の警察の前身だった王立北アイルランド警察の特別部隊が、1991年から2003年の間、プロテスタント系ギャング集団を情報筋として使う代わりにギャング手段によるカトリック住民への暴力行為を見逃していた、とする調査書を発表した。警察の記録の一部が破棄されているため、証拠不十分ということで警察官の中で処分される人は誰もいない見込みが高い、と報告書は結論づけた。警察側とプロテスタント側との癒着を明らかにした衝撃的な結論だったが、意外というよりも「やっぱり」という思いを誰しもがした。

 「実際に手を下した警察官たちを責めるのは簡単だ。しかし、警察最上部の支持がなければできなかったのだと思う」とオンブズマン組織のトップ、ヌアラ・オロアン氏は報道陣に語っている。

―アイルランド共和国は手を差し伸べるが

 北アイルランドの現況は、元を正せばイングランド(現在の英国)のアイルランド侵攻が始まりと言えるが、英国が北アイルランドから手を引き、南北が統一されれば問題が解決する、といった状況ではもはやなくなっている。南と一緒になりたくないという住民が北アイルランドにいる限り、英政府が恣意的に退くことは不可能だ。

 1998年の和平合意は、南北の統一は北アイルランドの住民が合意しない限り実現できないこと、アイルランド共和国が憲法を修正し、北アイルランドの領有権を訴えている部分を取り除くことを定めた。これを元にアイルランド共和国では憲法修正を行い、領有権の主張を手放した。

 アイルランド政府は今年1月、北アイルランドへの巨額投資計画を発表。教育分野や、ダブリンとベルファーストなどをつなぐ道路、ロンドンデリーにある空港への投資を含む。「投資は歓迎だが政治的目的が背後にないことを望む」とプロテスタント系政党民主ユニオニスト党のピーター・ロビンソン氏が述べると、アイルランド政府は「北アイルランドと英国の絆の土台を弱めるのは目的ではない」とした。南北統一に言及することで、北アイルランドで無用な反発を引き起こさないよう、気を使いながらの返答だった。

 アイルランド共和国も、かつての支配者英国も和平の進展への支援者として北アイルランドを外側から見守る格好をとっている。

―未来

 現在の英国では、「テロ」と言えばイスラム教過激主義者による「テロ」を思い浮かべる人がほとんどだ。先の警察と暴力集団との癒着を明らかにした報告書は注意を喚起したが、英国本土でIRAなどによる「テロ活動」が事実上停止している現在、人々の北アイルランドに対する関心は高いとは言えない。

 北アイルランドは次第に「無関係irrelevant」になった、とする論調を英国で目にするが、いわば問題の当事者だった英国でもそうなのだから、英国以外の国際社会からすると、北アイルランドはますます遠い存在だ。

 武力の衝突に関する報道の続くイスラエルーパレスチナ問題などに比べても、北アイルランドは「忘れられた場所」になってしまったとも言えるのかもしれない。

 2002年以来停止している自治政府も、ここ数年で何度も再開直前まで行ったが、プロテスタント系政党とカトリック系政党が互いを責め合い、合意決裂に至った経緯があるため、大きな期待を抱く人は少なくとも英本土では多くない。

 自治政府の活動が停止しても、北アイルランド議会の議員たちは給与をもらい続けているため、「税金の無駄遣い」と見る向きも多い。「自分のことを自分でまともに解決できないとは」と嘆く見方もある。

―統合学校

 「北アイルランドで唯一明るいニュースがあるとすれば、『統合学校』を希望する親が増えていることかしら」と、英週刊誌「エコノミスト」に北アイルランドの分析記事を書く、ジャーナリストのフィオヌアラ・オコナー氏は言う。

 北アイルランドの子供たちのほとんどは、カトリック系かプロテスタント系かいずれかの学校に通い、大学や会社に入るまで異なる宗派の住民同士との交流はほとんどないが、1981年、カトリック、プロテスタント、他の宗派・宗教、無宗教の子供たちが一つ屋根の下で勉強する学校ができた。別々の教育体制やコミュニティーに所属する中で生まれる、互いに対する無知、偏見、憎しみを自分の子供たちには決して経験して欲しくない、と考えた親たちが作った統合教育学校だ。

 最初に設立されたラーガン・カレッジ(日本では中学から高校に相当)から現在までに統合学校の数は小中学校を合わせて58校となった。北アイルランドの全小中学校数からすると約5%で、ほんの一握りともいえる。それでも、既存の宗派の学校に入れたくないと考える親は増えており、2005年には統合学校への入学希望者500人を「断らわざるを得なかった」と、統合学校の運営を助ける団体「NICIE」のマーケティング・マネジャー、デボラ・ギルバンさんは言う。

 統合学校の成り立ちは親の意思が出発点だった。「統合学校」として政府から認定を受け、親が教育費を払わないで済むように運営費を税金でカバーしてもらうためには、ある程度の生徒数と一定期間継続して運営できることを証明しなければならない。認定が降りるまでの間、統合学校は「統合学校基金」を通じて協力者から資金を募り、これを運営費にあてる。

 ブレア英首相も訪れたと言う、統合学校の一つ、へーゼルウッド中等統合学校を訪れてみた。校内の壁の一部にあったモザイク画の一つには銃がモチーフとして描かれていた。

 集まってくれた数人の生徒たちは、「学校では宗派が違っても全然関係なく勉強したり、遊んだりする」と声をそろえる。

 「放課後、家に連れてきて遊ぶこともあるよ」と一人の男生徒。「でも(同じ宗派の友人同士が行く)地元のクラブには一緒に踊りに行ったりはしないかな」。

 「同じ教育機関に通ったからといって、全ての問題は解決しない。統合学校に行っただけで差別や偏見が全て消えるなんてことはないし、学校に期待を持たせすぎないほうがいい」と、自分の子供も統合学校に通わせた、「エコノミスト」ジャーナリストのオコナー氏が言った言葉を思い出した。

 学校から外に出るために校門まで歩く途中の道で、近隣の建物と学校を隔てる高い柵が付けられていることに気づいた。柵の上には鉄製の突起物がついており、校門以外の場所からは絶対に入らせないぞ、という意思を感じた。何故これほど頑丈な柵を作る必要があるのか。柵も銃のモザイクも、ベルファーストに住む子供からすれば見慣れた光景で、ことさら気にならないのだろうか。

 統合学校はカトリック、プロテスタント系住民の両方から反発を受けやすい、とNICIEのギルバンさん。カトリック教徒から見れば敵であるプロテスタントの子供がいる学校であり、プロテスタントか見ればその逆だからだ。子供の数が少なくなり、生徒の取りあいとなっている北アイルランドでは、生徒が統合学校に行けば自分たちの学校が閉鎖される状態を恐れる学校もある。しかし、理想として統合学校を支持する声は高まるばかりだ。

 2001年から03年の間に北アイルランドで行われた「オムニバス・サーベイ」では、81%の人が統合学校は平和と和解に役立つと答えている。2005年の「ライフ・タイムズ・サーベイ」では、現実には北アイルランドの90%の地域がカトリックかプロテスタント居住区に分かれているものの、79%の人は異なる宗派同士が混在する地域に住むことを望んでいるという結果が出た。

 現実は希望とはかけ離れており、3月末再開予定の自治政府も今後どうなるか予断を許さない。未来図は不明だ。しかし、数世紀いさかいが続いてきた北アイルランドは、今、自力で新たな将来を作る産みの苦しみの時期にあるのかもしれない。(終)

(追記。2007年4月)

 この後、カトリックのシン・フェイン党とプロテスタントのDUPは共に自治政府を形成することに合意し、5月8日から新政府発足予定だ。何と、シン・フェイン党のアダムズ党首とDUPのペイズリー党首が並んで写真を撮られるのは今回が初めてだったようだ。
 
 それでも、2人は一つの線上にならんでおらず、机はV字型に並べられ、V字の片方にペイズリー氏、片方にアダムズ氏が座り、向き合うけれども一つ机をシェアしたわけではない、という座席構成になったという。まだまだ苦労は続くが、こういうレベルのことで悩むようだったら、まだいいことに違いない。

# by niinfo | 2007-09-26 22:17 | 北アイルランドルポ