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by niinfo

ルポ:アイルランドの南から北へー4 「血の日曜日」と共に生きる 旅の終わり

日刊ベリタ 2008年08月02日掲載

 英領北アイルランドのロンドンデリーにある、13人のカトリック住民が命を落とした「血の日曜日事件」(1972年)を、遺族らが運営する「フリーデリー博物館」を訪れて追体験した。無実の市民らが殺害された事件はデリー市民の心に熱い思い出として生きている。
 
▽「血の日曜日事件」以前 
 
 プロテスタント住民が多数派だった北アイルランドでは、政治の主導権はプロテスタント系政党が長年握ってきた。カトリック住民は選挙制度、住宅、就職問題で差別を受け、警察もほぼプロテスタント住民が勤務していたため、治安面でも不安にさいなまれる生活を送っていた。デリーではプロテスタント住民は少数派だったが、圧倒的多数のカトリック住民を差別していた状況は他の地域と同様だった。 
 
 米国で1960年代、キング牧師を中心とした、少数民族に対する差別撤廃運動が盛んになりだした。北アイルランドに住むカトリック住民たちも、米国の公民権運動に触発されて動き出した。 
 
 1969年以降、それぞれの宗派の民兵組織(カトリックのアイルランド共和軍=IRA,プロテスタントのアルスター義勇軍=UVFなど)、北アイルランドに派遣された英軍、地元住民を巻き込んでの暴力事件が頻発化し、「トラブル」と呼ばれるようになっていた。 
 
▽1972年1月30日=血の日曜日 
 
 デリーにある「血の日曜日トラスト」が運営する、「フリー・デリー博物館」の資料を参考に、「その日」を辿ってみる。 
 
 「北アイルランド公民権協会」は、「予防拘禁制度」(テロの容疑者を裁判なしで無期限に拘禁する制度)に対する抗議のため、デリー市民に平和デモの開始を呼びかけた。デリー以外の北アイルランド全域でも同様のデモが実行されることになっていた。 
 
 予防拘禁制度への抗議デモは禁止されていたが、約15000人の男性、女性、子供たちが、日曜日の午後、クレッガン住宅街に集まりだした。目的地は市内中心地のギルドホール広場で、ここで集会が開かれることになっていた。 
 
 丁度その頃、在デリーの英軍を指揮していたフォード大佐は、デモがギルドホール広場まで進まないよう、これを止めるための準備を進めていた。広場に通じる道にはバリケードが築かれた。英軍の中でもエリート部隊とされるパラシュート部隊がデリー市内に派遣されていた。 
 
 デモ参加者は英軍が着々と準備を進めていることに殆ど気づかないままだった。IRAはデモを邪魔しないと約束しており、平和なデモになると認識されていたので、女性や子供たちも安心し、時には歌を歌いながら、行進を続けていた。 
 
 デモ参加者の一群が、ウイリアム通りにあった英軍のバリケード近くまで来た。デモの先頭にいたトラックと一部の参加者が右に折れて、ボグサイド方向に向かい、数百人のグループはウイリアム通りを歩き続けて、バリケードの前に到達した。 
 
 バリケード周辺で、デモ参加者が英軍に向かって石や瓶を投げ、英軍はゴム弾や高圧放水砲で応じるなど暴動状態となったが、午後4時近くになると、次第に沈静化した。 
 
 暴動場所から離れたところから、突然、パラシュート部隊が群集に発砲しだした。(最初に発砲したのがパラシュート部隊か、あるいは群集が発砲したので部隊が応戦したのかは明らかになっていない。)群集側から、少なくとも1発、発砲があった。数人が撃たれ、最初の発砲から10分ほど経って、部隊に逮捕令が下った。 
 
 部隊は、逃げる群衆にも発砲した。足を、腕を、あるいは後ろから背中を撃たれたり、バリケードの前に立った時に撃たれた人もいた。撃たれて死にそうになった息子を助けようとして、自分自身が撃たれた父親もいた。バリケードから逃れ、自宅アパートの玄関前で撃たれて亡くなった青年もいた。 
 
 30分も経たないうちに、サッカー場ほどの広さの場所で、英軍は13人を銃殺し、15人に負傷を負わせていた(後死んだ人を入れると死者の総数は14人)。英メディアが「殺されたのは狙撃者、爆弾犯だった」と報道。英軍と政府は「兵士に何百発もの発砲を受けた」と説明したが、発砲の傷を負った兵士は一人もいなかった。 
 
 事件は北アイルランドばかりか、アイルランド共和国、世界の他の国でも大きな怒りを引き起こし、「殺りく」という言葉を使って英軍の行動を伝えた新聞報道もあった。13人の葬式の日には、ダブリンの英国大使館が放火される事件もあった。 
 
 治安悪化を重く見た当時のヒース英内閣は、事件から一ヶ月余り経って、北アイルランド自治政府を廃止し、ロンドン・ウェストミンスターからの直接統治に切り替えた。 
 
 血の日曜日事件以前の3年間で、宗派の対立で殺された人は210人だったが、この事件が起きてからの11ヶ月では445人となった。「トラブル」は激化していった。 
 
 事件から3ヵ月後、ウイッジリ裁判で、攻撃した兵士は全員が無罪となった。 
 
 ここまでが主に博物館内の資料による経緯だが、付け加えると、1998年、サビル委員会が事件の再調査を開始した。2008年7月末現在、報告書は出ていない。 
 
 昨年、マイク・ジャクソン英軍元参謀総長は、BBCの取材の中で、「無実の人が殺された」と語った。ジャクソン氏は北アイルランドで7年間勤務し、「血の日曜日」に、デリーに派遣されていた。 
 
▽ジーンさんの話 
 
 博物館で資料を見せてくれたのが、17歳の弟ケビン・マッケルンネーさんを「血の日曜日」に亡くしたジーンさんだ。ジーンさんは当時23歳。結婚してカナダにいたが、ニュースを聞いて急きょ帰国。その後、デリーに戻って生活している。 
 
 博物館は昨年1月オープンし、これまでに8000人以上が訪れた。撃たれて亡くなった人が着ていた洋服や、デモの様子の写真、ビデオ画像、書籍などが陳列されている。数分のビデオ画像は当時の様子を生々しく伝え、貴重な歴史の記録となった。 
 
 博物館近くには血の日曜日で亡くなった人をしのぶ記念碑がある。1分もかからない場所にあるのがローズビル通り。この通りで銃弾を受けて亡くなった人もいる。 
 
 「カトリック住民の差別は、昔、ひどいものだったんです」とジーンさん。「自分の持ち家があれば投票できるけど、なければ投票できないとか、プロテスタント住民の都合の良いように選挙区が変更されていた。就職でも差別を受けた」。 
 
 現在は?と問いに、「現在は、ほぼ差別はなくなった。法の下では平等だ」と答え、微笑んだ。 
 
 博物館を出て、ローズビル通りや記念碑をまた見た。血の日曜日事件や差別の過去は、この界隈では忘れることは難しい。生々しい記憶を呼び起こすような記念碑や場所がそのままで残っているからだ。 
 
 過去を忘れないでいることは、デリーの市民にとって、そして北アイルランドの住民にとって、良いことなのだろうかー?記念碑もどこか片隅の目立たない場所に置いて、日常生活を続けることはできないのだろうか? 
 
 城壁ツアーのキャロル・トーランドさんが言っていたことを思い出す。「血の日曜日事件の真相究明の結果を、私たちはまだ受け入れる準備ができていない」―。 
 
 住民にとっては、30数年前の「あの日」はまだ熱い記憶として残る。サビル調査委員会の報告書発表の見込みは未だなく、過去を封印できない状態が続く。 
 
 いつか、宗派の違いを気にすることがない社会ができることを願って、城壁の都市を後にした。(終) 
 
 参考:フリーデリー博物館サイト 
 
http://www.museumoffreederry.org/index02.html 
 
(取材旅行はアイルランド共和国、英領北アイルランドの観光部門・団体、Failte Ireland, Tourism Ireland, Northern Ireland Tourist Boardの資金で計画され、在ロンドンの外国プレス協会の会員が参加した。) 
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by niinfo | 2008-09-03 16:11 | 北アイルランドルポ