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ルポ:アイルランドの南から北へー3 過去の歴史の重みを残す「壁の都市」デリー

日刊ベリタ 2008年08月02日掲載

 英領北アイルランドの第2の都市デリー(人口約10万人)。「ロンドンデリー」が正式名称だが、地元では「デリー」と呼ぶ人が多い。17世紀、ロンドン市領であったことに由来する「ロンドンデリー」という名称を使えば、一部住民にとっては屈辱的な意味合いになる。プロテスタント住民が大多数だった北アイルランドだが、デリーでは少数派はプロテスタント住民で、多数派はカトリック住民だ。宗派の異なる住民の間の、英軍を巻き込んでの紛争が長年続き、13人の市民が命を落とした「血の日曜日事件」(1972年)は未だ人々の記憶に生々しく生きる。ロンドンデリーの「壁」近辺を歩いた。
 
▽「壁の都市」が残すもの 
 
 デリーを初めて訪れると、目を奪われるのが市内中心部を囲む外周約1・5キロの城壁だ。17世紀初頭、当時のアイルランドの統治国イングランドから、アイルランド半島の北部アルスター地方にやってきたプロテスタントの入植者が築き上げたものだ。入植はロンドン市の資金で実行され、時のイングランド王ジェームズ1世(アイルランド王、スコットランド王も兼務)の命を受けて行なわれた。城壁は、地元アイルランド人の攻撃から入植者を守るために建設されたと言う。 
 
 城壁はデリーを包囲線から守ったことでも知られている。17世紀末、カトリックのイングランド王ジェイムズ2世(アイルランド王も兼務)は、英王位をかけてプロテスタントのウイリアム3世と戦っていたが、英議会によって王位を追われ、フランスに亡命せざるを得なくなった。「徒弟」とよばれるプロテスタントの親睦団体のメンバー13人は、1688年12月、城壁の門を閉じ、カトリック軍(ジャコバイト軍と呼ばれる)の侵入からプロテスタント市民を守った。ジャコバイト軍はデリーを攻撃するべく、包囲線を展開した。1689年、プロテスタントの救援軍の到着で包囲は解かれたが、この間、当時のデリーの人口の半分が飢餓や病気で亡くなったと言われている。 
 
 プロテスタント軍は翌年7月のボイン川の戦い、その翌年のオーグリム、リマリックの戦いで勝利を決めた。「物語りアイルランドの歴史」(波多野裕造氏著)によると、1691年のリマリック条約で、プロテスタント(国教派)の優位が決定的になった。ダブリンのアイルランド議会は全員プロテスタント各派で構成され、英政府に従属する「植民地議会」になった。宗教界は3つのグループに大別され、「国教会をトップに、プロテスタントの非国教会派」が続き、「最下位にカトリック教会」が位置づけられたと言う。 
 
 ガイド役のキャロル・リン・トーランドさんと共に、プロテスタント住民の誇りのシンボルでもある城壁の中を歩く。上り坂の所々に大砲が置かれていた。 
 
 城壁外の左手に「徒弟」団体が集まる建物が見えた。城壁の門を閉じ、カトリック軍侵入を防いだ徒弟たちは、プロテスタントからすれば大きな誇りだ。毎年数回、プロテスタントの勝利を祝う行進が、市内で行なわれる。「カトリック住民とプロテスタント住民のぶつかりあいが頻発していた1970年代、80年代は、こうした行進が暴動に発展していた。今は何の問題もないが」とトーランドさん。 
 
 デリーの住民の70%はカトリック系で、残りがプロテスタント住民だ。「問題はないと言っても、カトリック住民にしてみれば、不愉快な行進ではないのだろうか?」と聞いてみた。トーランドさんは、「カトリック住民は現状を理解している」と答えた。 
 
 思い起こせば、北アイルランド内のあちこちで目にするのだが、カトリック、プロテスタントそれぞれの住民は住居前に旗(カトリックはアイルランドの旗、プロテスタントは英国あるいはイングランドの旗)を掲げるなど、自分の所属を明確にし、自分たちの歴史への誇りを表面化することで生きてきた。現在デリーでは少数派となってしまったプロテスタント住民にとって、行進は自分たちの存在の証でもあり、多数派カトリック住民がこれを止めることはできないのだろう。 
 
 それにしても、もう一方の住民にとって不愉快な行進は地域の平和には貢献しないのではないか?「理解」しているとしたら、ずい分我慢強いものだがー?様々な思いが心を巡っていると、説明が必要だと思ったのか、トーランドさんは、「ガイドをしていると、あなたはどっち?とよく聞かれる。これが最高にいやな質問だ。あなたはカトリックなのか、プロテスタントなのか、と。私は私なのに。宗派で自分を代弁されたくない」―。 
 
 それでも、宗派が住民の考え方や行動を規定してきたのも事実だ。トーランドさんは、70年代、80年代、「自分がまだ子供だった頃、暴動に参加するのはしょっちゅうだった。一種の趣味みたいになっていた」と語る。 
 
 「レンガや石、火炎瓶を、駐在していた英軍(カトリック住民からすれば、プロテスタント側及び体制側と見なされる)に向かって投げつけると、英軍はゴム弾や高圧放水砲で応じていた」とトーランドさん。「若者にとっては、知らない異性に出会える機会でもあったので、今度の暴動には何を着ていこうか?と友達同士で話すこともあった」と明るく話した。 
 
 共に城壁内を歩き、この取材旅行に参加していたほかの外国人記者たちが、これを聞いて思わず笑い声をあげた。「暴動が実は出会いの場所だったなんて、笑ってしまう」-。 
 
 私にはとても笑えなかった。コミュニティー内に憎しみの対象が存在し、頻繁に石や火炎瓶を投げる生活は暗く、苦しいものではなかったのだろうか。コミュニティー内の緊張感は相当なものであったろうし、今は果たしてそういった感情は消えているのだろうか? 
 
 城壁の高台に到着した。カトリック教徒が多く住む「ボグサイト」(湿地帯の意味)地区が見下ろせた。1972年、カトリック住民が公民権運動のデモを行なった場所だ。暴動化を恐れて派遣された英軍が、住民13人を射殺し、後に「血の日曜日」と呼ばれる事件になった。 
 
▽公民権運動が「事件」に 
 
 アイルランド全域で公民権運動が起きたのは、カトリック住民への差別が長年続いてきたからだ。プロテスタント住民が有利になるような選挙制度の撤廃、公営住宅の公平な割り当て、公務員採用面での差別廃止などを求めて、運動が起きた。 
 
 ボグサイト地区の広い緑の野原と住宅群を見ながらトーランドさんの説明を聞いていると、血の日曜日事件で「英軍が最初に銃を使った」という表現があった。実は、誰が先に発砲したのかは、この事件の大きな争点になっている。1998年、政府は調査委員会を立ち上げたが、まだ最終報告書が出ていない。デモに参加していた住民側の誰かが最初に発砲し、これに英軍が触発されて銃を放ったのか、あるいは英軍が最初に発砲したのかー? 
 
 トーランドさんは、「委員会の最終報告の結果が出たとしても、私たち住民はまだこれを冷静に受け止める準備はできていないと思う」と語った。未だコミュニティー内の緊張感は続いている。 
 
 週末の暴動で攻撃対象が英軍だったこと、ロンドンデリーではなく「デリー」と呼ぶこと、「発砲は英軍が最初だった」という説明など、トーランドさんはカトリック住民に違いなかった。「宗派で判断されたくない」と言いながらも、自分の体験も交えてデリーの様子を語ってくれたトーランドさんの勇気と、現在も未だ対立の中で生きる重さに心打たれた。(続く) 
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by niinfo | 2008-09-03 16:09 | 北アイルランドルポ